蓮月さん

南禅寺横の野村美術館を今日、訪ねました。

移動の車窓の風景に満開の桜が飛び込んできます。春の日を受けてキラキラ、自然も、人も。黒いスーツ姿の人々もたくさん目にしました。入社式、辞令交付式があちこちで行われる日ですよね、4月1日。

市バスは230円と10円アップ。京都駅から5系統のバスに乗って南禅寺永観堂道下車。

大田垣蓮月展が開かれているのです。今日から後期展示。

以前より関心のあった人物。昨年、ある縁でこの人の軸を手に入れたこともあり、是非この目でと行って参りました。

家老と芸者の間に生まれた賢い少女は、誠(のぶ)と名付けられた後、知恩院の寺侍に預けられました。8歳の頃、彼女は亀岡城に奉公に出され、そこで女性に相応しい教養を身に着けます。やがて結婚し、多くの家族の悲劇に耐えた後、彼女は32歳にして尼になります。それから間もなく、彼女は和歌と陶磁器を作り始め、85歳で亡くなるまで創作を続けました。彼女が作った全ての陶磁器には、自身の和歌が独特の書体で描かれ、あるいは刻まれています。彼女の歌は伝統的な慣習に則りながらも、個性的で、放浪の尼であった自らの経験が基になっています。100点を超す展示作品は蓮月と他の芸術家たち、富岡鉄斎、冷泉為恭、和田呉山などとのユニークな合作を含め、酒、煎茶、茶会のための絵画・書跡・陶磁器です。この展示は、京都では1984年以来となる本格的なものです。是非、お見逃しなく。(野村美術館HPより引用)

1791年、伊賀上野城代家老藤堂良聖と芸者との間に生まれ、生後、知恩院の寺侍、大田垣家に養子に出されます。

8歳で丹波亀岡城に女中奉公に出され、利発な彼女は作法、書、和歌、武芸、囲碁と教養を身につけます。武芸は薙刀の他、鎖鎌の名手であったそうです。

14歳で養家に呼び戻され養父の選んだ婿と結婚し、子どももできるのですが、幼くしてどの子も亡くし、生活の荒れた夫とも離縁。二人目の夫を迎えるのですがその夫との間でできた子どもも亡くし、二度目の夫とも死別という失意の中で仏門に入り蓮月と名乗ります。

今回展示の作品は京都に長く住む二人の人物、アメリカ人学芸員ジョン・ウォーカーとオーストリア社会学教授、ガブリエレ・ハードによって集められたあめんぼコレクションによるもので、すべて和歌には英訳が付いています。

わかりづらい歌も英語訳で逆に意味がわかるというのがあり、奇妙な経験でした。

この外国人の手になる解説書が販売されているのですが、1冊7600円という値段ととても重いので購入は諦めました。

陶器の作品はすべて蓮月の釘彫りで歌が書かれています。

お茶席があるのですが、この日は遠州流でした。点て出しでお点前は拝見できませんでしたが、サプライズは蓮月の茶碗でお茶がいただけるのです。これはしあわせでした。

それも何点かの中から選べるのです。私が選んだ茶碗には、

鶯は
みやこにいでし
山ざとに
梅ひとりこそ
咲き匂いけれ

とありました。

謙虚で利他の働きをする人で、洪水があったときに和田呉山という画家と仏画を1000枚作って売り、そのお金を被災者に義捐金として届けたというエピソードが紹介されていました。

それから幕末に上洛してきた島津藩の一団の前に立ちはだかり、対応した西郷隆盛に、

あだみかたかつもまけるもあはれなり
おなじみくにのひととおもへば

という歌を書いた色紙を渡し、戦いの抑制を訴えたという逸話も残っています。