おまけ ふたつ 茶人杉木普斎の屋敷跡と---

近鉄伊勢市駅から会場のおく文料理旅館に向かう途中に、杉木普斎の屋敷跡の碑があった。杉木普斎も御師だったとは。


普斎は御師として西国に旅立つ折々に京都へ立ち寄り、15歳から30歳頃まで千宗旦茶の湯を学び、宗旦からは宗喜の茶名を、大徳寺の参禅の師、乾英宗単(けんえいそうたん)からは普斎の号を与えられた。家業の御師を継ぐかたわら、侘び茶人として、のちには藤村庸軒、三宅亡羊、久須見疎安とともに宗旦四天王と言われる高弟の一人に数えられている。

以下に「殿様が喜んだ小豆餅」と題した『とらや』の菓子資料室とらや文庫にある読み物を引用する。

寛文9年(1669)、式年遷宮の警護で伊勢山田を訪れた鳥羽城主内藤志摩守は、宿泊先の御師、逐沼(おいぬま)大夫を通じて、当時すでに宗旦の流れを汲む茶人として有名であった普斎に、一服の茶を所望しました。
訪問前日の夕刻、大夫は茶の準備を確認するために、普斎宅を訪ねると、台所には取り立てて準備の様子はなく、いつもの猫が寝ているだけです。大夫は慌てて手伝いを申し出ますが、「もうすでに準備は調っている。」と言われ、何も手出しできませんでした。
翌日朝食後、約束の時間に殿様が訪ねると、準備万端。茶室に通され、菓子を食べ、茶を三服もお替りし、歓談ののち、宿に帰りました。殿様は出された菓子を気に入り、大夫を呼んで、土産にしたいので、普斎にどこの菓子か聞いてくるように命じました。早速、菓子のことを尋ねに行くと、普斎は言葉を濁し、あり合わせのものだからといって、答えてくれませんでした。
ことの次第を聞いて殿様は、普斎のお手製と気づき、その場で誇らなかった普斎の奥ゆかしさを後々までほめたとのこと。
この菓子、隣の餅屋の餅に小豆を煮たものをのせ、その上に白砂糖をいっぱい振りかけた、素朴な手作りのものでした。連日歓待を受けている殿様を考えた、もてなしの一品だったのでしょう。

もう一点、昨日、娘から電話があり、先日のおく文でのイベント、テレビのニュースでやっていて「お母さん、テレビに出ていたよ。」とのこと。たしかに当日、某テレビ局が取材に来ていて、インタビューされてはいたのだ。