GWの一日

今読んでいる「平家物語 宮尾本 二白虎之巻」に平家納経の経緯がでてくる。藤原邦綱にこのたび発願の納経は源氏物語絵巻を参照してはどうかと勧められるくだりに、

源氏物語絵巻の制作は、たぶん今は亡き白河院が発案し、鳥羽院それを受け継がれたもので、完成直後はむろん十二巻揃っており、これはそっくり摂関家の文庫に保管されているという。この文庫とは近衛の持ち物で近衛とは藤原北家のこと、夭逝した基実は始祖である。基実薨じたあと、近衛家に伝わる古文書、典籍類等、悉く寡婦となった妻盛子に伝領されたことは以前に述べたことである。
邦綱に源氏物語絵巻を参照しては如何と、勧められた清盛は、いまは娘盛子の持ち物となった陽明文庫におもむき、その絵巻を見て驚嘆した。-----

とあり、4月末に京都の仁和寺横にある陽明文庫を訪ねたこともあって、もう少し調べたくなり、ぐぐって得たことを記録しておくことにする。(図書館に行くべきところ居ながらにして何と安易に調べものができることだろう。)そしてtakikioは日本史に疎く、こんなことも!とびっくりされるぐらい知らないことが多いので、あきれたら読み飛ばしてくださいませ。こぴぺも駆使致しまする。

まず摂関家とは鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った五家(近衛家九条家二条家一条家鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。

近衛家藤原北家の流れを汲む家である。藤原氏は、12世紀に摂政、関白、太政大臣を務めた藤原忠通(1097年 - 1164年)の後、その長男・近衛基実(1143年 - 1166年)を祖とする近衛家と三男・九条兼実(1149年 - 1207年)を祖とする九条家の2家に分かれ、その後近衛家からは鷹司家が、九条家からは二条家一条家が分かれた。

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。)

近衛家の祖である近衛基実藤原忠通が40歳を過ぎてから生まれた長男で、若くして氏長者となり、関白に任じられたが、24歳の若さで他界した。この基実に清盛の娘盛子が嫁入りし、上記の平家物語宮尾本につながる。

近衛家の歴代当主は、藤原道長の日記『御堂関白記』をはじめ、先祖の日記や朝廷の儀式関係などの重要な文書記録を大切に伝えてきた。

戦国時代の動乱期に関白・太政大臣を務めた13代当主近衛政家(1445年 - 1505年)は、応仁・文明の乱に際し、家伝の古文書(唐櫃50合の分量があったという)を京都の北郊の岩倉に疎開させた。応仁の乱によって近衛家の邸宅は焼失したが、古文書類は難を逃れた。

16代当主近衛前久(さきひさ、号は龍山、1536年 - 1612年)は、室町幕府の崩壊、本能寺の変徳川幕府成立という激動の時代に関白を務め、関白の職にありながら、上杉謙信と同盟を結んで越後や関東に赴くなど数奇な生涯を送った人物であるが、彼も家伝文書の保存には意を払い、文書を比叡山の麓の坂本に疎開させたという。

近世の近衛家当主には、詩書画などの諸芸に通じた教養人・風流人が多く、彼らによって伝世の古文書が整理され、新たな書物が収集された。

17代当主の近衛信尹のぶただ、1565年 - 1614年) は三藐院(さんみゃくいん)と号し、「寛永の三筆」の一人に数えられる能書家で教養人であった。信尹には継嗣がなかったため、後陽成天皇の第4皇子であり、信尹には甥にあたる近衛信尋(のぶひろ、号応山、1599年 - 1649年)を養子に迎えた。信尋も書道、茶道、連歌などの芸道に通じた教養人であった。

江戸時代中期の人物である21代当主近衛家熙(いえひろ、号予楽院、1667年 - 1736年)も詩書画、茶道等諸芸に優れた教養人であった。家熙は古今の名筆を貼り交ぜたアルバムである「大手鑑」(おおてかがみ、現・国宝)を編纂し、また多くの名筆を臨書した。この中には家熙の臨書によってのみその存在が知られる筆跡も多く、資料的に貴重である。

これら歴代の近衛家当主によって守られてきた古文書類は、近代に入って明治33年(1900年)から数度に分けて京都帝国大学附属図書館に寄託された。その後、昭和期の当主であり、第二次大戦開戦に至る激動の時代に総理大臣を務めた近衛文麿昭和13年(1938年)に財団法人陽明文庫を設立し、家蔵の資料の永久保存を図ることとした。「陽明」は、近衛家の別名であり、近衛家の屋敷が大内裏の14門の1つである陽明門から発する近衛大路沿いにあったことにちなむものである。

文庫は洛西の仁和寺の近くに位置する。約10,000m²の敷地内には、文庫設立以来の建物である書庫2棟、閲覧事務所のほか、昭和19年(1944年)に建てられた数寄屋造の虎山荘が建つ。これらは昭和期の貴重な建造物として、国の登録有形文化財に登録されている。




4月末に陽明文庫支援茶会が虎山荘で行われ、ひょんなきっかけからtakikioは参加することになった。

陽明文庫に伝わる御宸作の絵が寄り付きに、御宸翰が待合にかけられ、花入れは陽明文庫に伝わる重要文化財青磁鳳凰耳 銘 千声、というようにためいきがもれるお道具の数々、takikioには分不相応の席だった。あるきっかけから主催者の方に縁をいただき、これで三度目の参加であったが、これはお金に余裕のある方達が楽しまれる茶会、takikioには分不相応、身の丈の茶を愉しみたいと日頃から考えているtakikioは参加させていただくのはこれが最後と思い定めてその日上洛した。そして最後とするのにふさわしい体験になった。

濃茶席、薄茶席、点心席と進んだ後は、隣に建つ陽明文庫に入れていただき、マスクを付けて中央のケースにある国宝の「御堂関白記」、「大手鑑」を拝見。

そのあと、壁際にずらり並べられていたのは予楽院の茶杓箪笥収蔵の茶杓31本。どきどきしながら二巡してこの目に焼き付けた。
後西天皇 5  常修院宮 3  細川幽斎 1  利休 2 
恵観(一条昭良) 1  光甫(本阿弥光悦の孫) 1
瀬田掃部 2  小堀遠州 1  古田織部 2  百庵 1
福島正則 1  宗旦 1  金森宗和 3  佐久間将監 1
織田有楽 1  細川三斎 1 武野紹鴎 1  珠徳 1
あと2本は不明

珠徳の茶杓をこの目でみることができるとは。。。

支援と名付けられているのは傷んできた虎山荘の修復に参加料の一部が寄付されることによる。