東灘の香雪美術館をたずねる

香雪美術館の「寛永文化の茶人たち」を訪ねる。

寛永文化とは桃山と元禄に挟まれた寛永年間(1624〜45)を中心としたおよそ80年間の江戸初期の時代を指す。安土桃山時代の利休亡き後、利休の茶を継承する茶匠たちが次々に登場し、さらに大胆な創造性を発揮した。

まず古田織部が天下の宗匠となり、弟子の小堀遠州が受け継ぐ。遠州は幕府の作事奉行として多くの建築や造園に関わったことから宮廷文化にも理解を深め、「綺麗さび」と呼ばれる美意識を生み出す。

京の都では町衆勢力と後水尾天皇を中心とする朝廷勢力が、幕藩体制を強化する江戸幕府に対抗する形で文化の興隆を生み出す。公家社会、僧侶、文人、町衆等、あらゆる階層に支持者を持っていた金森宗和のやさしく雅な茶風は「姫宗和」、利休の孫である千宗旦は、清貧の侘びに親しみ「わび宗旦」と称された。絵画や陶芸も彼らの指導により、前代までにない独創的な開花を見せた。
          パンフレット前文より

全部で60点。ちょうど一年前の「点前座の茶道具展」で見た道具もあり、馴染んでいっているのがうれしい。

印象に残ったものをあげる。

本阿弥光悦の「竹下絵詩歌巻・巻末断簡」
屏風に歌三種の書と夏の竹、冬の竹を描き、夏の竹には太陽に見立てて鍍金した丸い金属の円盤(くすんでいるが金色であったのだろう)を直接、屏風に貼り付けている。冬の竹は雪がつもり、銀箔の三日月(黒く変色)が貼ってある。スケールの大きな堂々とした屏風。

千宗旦 二重切花入 銘「のんこう」
楽三代の道入はノンコウと呼ばれるが、それはなぜか、今日、はじめて知った。宗旦が伊勢参宮の途中、能古(のんこ)茶屋付近で見つけた竹材で二重切花入を作り「ノンコウ」と銘をつけ道入に贈り、道入はうれしくて毎日夜これに花を生けたので人は道入のことを「のんこう」と呼ぶようになったそうだ。この話の後半は知っていたがそもそもこの花入になぜノンコウなどという名前をつけたのか、ノンコウとは何?とずっと疑問だった。茶屋の名前だったとは。

宗伯茶入 銘「不聞猿(きかざる)」
宗伯は桃山時代の陶工。茶入の耳の姿が「みざる、いわざる、きかざる」の耳をおおった聞か猿を連想することから付けられた銘。茶入としては背が高く、20センチぐらいある。

村田珠光 茶杓 銘「茶瓢」
最も初期に作られた竹茶杓で侘び茶の創始者村田珠光の作であることを、千宗旦が極めている。中間の節で括れ、その上下が膨らんでいる姿から、宗旦が「茶瓢」と銘名。櫂先部分の撓めは殆ど無く、掬うのではなく、掻き出すようにして用いたものと想像される。薬匙の名残を留めた形を持つ古例として、足利義政の作と称されて三井家に伝来した茶杓「笹葉」に比べられるものである。材は煤竹。

野々村仁清 諫鼓鳥香炉
諫鼓(かんこ)とは君主に諫言する者が打ち鳴らして事を知らせた太鼓。平和なときは打たれることもなく鳥がとまる。諫鼓鳥は善政の象徴。太鼓に鳥がとまっている形で仁清の色絵が素晴らしいのだがそれ以外にこの諫鼓鳥なる言葉を知ったのが収穫。

楽道入(ノンコウ) 鶏 香合
色づけは無いので、ヘラのみで形をつくり、存在感がでている。5cm四方の小さなものなのだが嘴の部分などすごい技術。

前庭の紅葉も素晴らしかった。担当の人が風が吹くと落ち葉がすごくてねぇとこぼしながら掃いていた。小雨だが思わぬ雨模様になった。濡れて駅に急ぐ。