新聞記事から 人生の贈りもの 日本画家 堀文子(93歳) 5回シリーズの3回め

女学校時代に2・26事件に遭遇されたそうですね。

あの朝、近所のいたるところにバリケードが張られ、銃をもった兵隊が立っていた。町に退去命令が出ると母たちは非難し、私と父だけ家に残った。銃弾を防ぐため積み上げた畳に隠れ、塀を突き破って庭を進んでいく軍隊を息をひそめて見ていた。死が身近に充満していると感じた出来事だった。

女子美に進学されました。

西洋画は印刷物でしか見ることができず、原画をみることのできる日本画を選んだ。入学すると型を重視する日本画は習い事のように思えて失望した。

卒業後、東京帝大の農学部に勤められました。

当時は学校の先生が唯一の就職口だった。でも私は絶対になりたくなかった。未熟な子の上に立ち、「お前」と呼び捨てにして牛耳っているうちに精神が堕落してしまうと思ったからだ。絵描きになれるとは考えなかった。農学部で研究資料となる農作物の記録画を描く人を探していたので2年間勤めた。拡大鏡で芽や根を観察しスケッチする仕事。発芽、結実という生命の基礎を目にして世界が広がり、初期の作品のテーマになった。月給を手にし念願の「家出」を決行した。極寒の中、神楽坂のアパートに引っ越した。ここには場所がら芸者さんが多く住み、貧しさから親に売られた彼女たちのたくましく潔い生き様を尊敬し、女学校では学べなかった自立の本当に意味を教わった。銭湯の風景などここで取材して描いた絵は戦争で失ってしまった。
実家も空襲に遭われました。

家も財産も焼けて土地を売り、青山のバラックで暮した。労働をしたことのない一家の暮らしのすべてが私の肩にかかり、絵本の仕事で露命をつないだ。戦争によって一つの時代が終わり、大きな屋敷で雇い人に囲まれて暮らしていた特権階級が無残に滅びていくのを目の当たりにした。私はこの乱世を生きたことで精神が鍛えられたように思う。