新聞記事から 人生の贈りもの 日本画家 堀文子(93歳) 5回シリーズの2回め

5歳の時に関東大震災に遭われました。

大きな揺れにみんな庭に飛び出し、裸足で転げまわっていた。「大人なのになんてお行儀が悪いんだろう」と笑っていた。二日目ぐらいに避難所に移った。空は真っ赤で炎が渦巻き材木が燃えながら飛んでいて(炎上する応天門を描いた)「伴大納言絵巻」のようだった。翌日、我が家の近くまで火が迫っているという知らせが届き恐怖で頭が真っ白になり体が震えた。そのとき「在るものは滅びる」という声が心の底に響き、啓示を受けた。関東大震災は幼い私に無常感を植え付け、無邪気な子供時代は終わった。

昨年の東日本大震災の発生時は外出中だったそうですね。

電車が停止し真夜中に自宅に戻って被害の大きさに驚いた。関東大震災の時我が家のばあやは江戸時代の安政の大地震を経験した人で、余震が続く中、戸板を敷いて寝床を準備したり食料を確保したり司令官になっておびえる私たちを指揮してくれた。経験を伝える老人を大切にしなければならない。金持ちだろうが貧しかろうが天災はおしなべてやってくる。近頃おごりはじめた日本人が震災後本来の日本を取り戻そうとする姿を見せたことに私は最後の希望を持っている。

関東大震災から2年後に小学校に入学されました。

綴り方の時間に「将来、職業婦人になりたい」と書いて先生を驚かせました。母はお茶ノ水高女の出身で「お嫁に行って子を産むだけでなく、女が才能を伸ばして仕事をする時代が来た」と母に言われて私は育った。

東京府立第5高等女学校に在学中に絵を志す決意をされました。

将来は自立しなければという一心だった。表を作って学校の科目と自分の成績を書きこんで検討して残ったのは美術だった。努力すれば人並になれるのではと考えた。本当は科学者になりたかった。「子供の科学」という雑誌が大好きでこの世の不思議に感動していた。当時、女は大学には進学できなかった。だから私は女でなく「人間」になり、男女どちらの経験もしてみようと強く思うようになった。