12/30の新聞記事から2

●ニッポン前へ委員会
神里達博:(冒頭発言)かつて、社会の中心的な関心事は「モノ」の豊かさの追求だった。

しかし、その目標が達成されるにつれて、新たに富を「得る社会」よりも、今の豊かさを「失うリスク」に、人々は注目するようになる。

一方で環境問題に代表されるように、科学技術の発展は幸福ばかりでなく、時には大きなリスクをもたらすことも明らかになってきた。

このような認識の広がりは先進国に共通する現象であり、ドイツの社会学者ベックはこれを「リスク社会」と名付けた。

我が国も東日本大震災でリスク社会化が決定的になったようにみえる。だが、リスクと向き合う制度や考え方、理解力は必ずしも十分ではない。

自由主義や合理主義への信頼が厚い米国では、行政行為にも科学的あるいはリスク論的な考え方が多く取り入れられている。たとえば、新たな規制を導入する場合、どんな規制が効率的か、コストと便益の観点で比較検討する。環境規制するのか、交通規制するのか、米国人は同じ費用でより多くの人命が救われる方を採用する、という考え方を好むのだ。

他方、日本人はその時々で社会的な関心が大きく集まった問題には「とにかくできる限りの手当てをすべきだ」という合意がされやすい。

しかし、無い袖は振れない時代になった今、リスクや便益、コストの見積もりに基づいた、より合理的な資源分配の仕組みが求められるだろう。

同時に、リスクを算出する根拠の信頼性にはバラツキがあり、しかも前提によって大きく数字が変わることも忘れてはならない。

リスクの計算を正確に理解できるのは専門家だけだが学者の意見は必ずしも一致せず、また専門家はしばしば利害当事者である。原発事故を通じて我々はその現実を強く認識した。

欧州ではこの難題に以前から取り組み、社会の中に「もう一つの知恵」を確保する策を構築してきた。医療における「セカンドオピニオン」に似た考え方だ。」たとえば、科学技術の評価機関を議会に設置し、行政とは別系統のチェック体制を敷いている。大学が市民からの求めに応じて、調査研究やコンサルタントの役割を果たす「サイエンスショップ」といった仕組みもある。

震災を契機に顕在化した「日本社会の宿題」は多いがリスクとの向き合い方もその一つだ。諸外国の取り組みに学びつつ、私たちにふさわしい道を探るべき時期が来ている。

萱野稔人:自分が負担する意識大切

藻谷浩介:日本の借金方式通じない

福屋粧子:情報遮断時の行動確認を

平田オリザ:減災の視点で財源生かせ

大竹文雄:科学で白黒つかぬ場合も

広井良典:地域で「納得」を共有する

稲村和美:行政の情報の出し方課題

加藤陽子:専門家集団で国補完して

これを読んで少し頭の中が整理された。