あれこれ

横浜のみなとみらい駅で降りて、長いエスカレーターを昇っていく。すると黒い大きな壁一面に端正な碑文が刻まれている。独語の詩とその和訳。これはいったい何だろう。

「樹木は、この溢れんばかりの過剰を 使うことも 享受することもなく自然に還す」とある。過剰。はっとする。そのとおりだ。もし植物が、利己的に振る舞い、自分の生存に必要最低限の光合成しか行わなかったら、われら地球の生命にこうした多様性は生まれ得なかった。

碑文はこう続く。「動物はこの溢れる養分を、自由で 嬉々とした自らの運動に使用する」。これは18世紀のドイツの詩人フリードリッヒ・フォン・シラーの言葉。

一次生産者としての植物が、太陽のエネルギーを過剰なまでに固定し、惜しみなく虫や鳥に与え、水と土を豊かにしてくれたからこそ今の私たちがある。生命の循環の核心をここまで過不足なく捉えた言葉を私は知らない。生命は利己的ではなく、本質的に利他的なのだ。その利他性を絶えず他の生命に手渡すことで、私たちは地球の上に共存している。動的平衡とは、この営みを指す言葉である。

この壁面自体は、シラーの言葉を引用した米国の現代アート作家ジョセフ・コスースの作品。ほとんどの人が目もくれず急ぎ足で通り過ぎるなか、しばしこのモノリスを前に言葉のない祈りを祈った。

(12/3の朝日新聞文化文芸欄コラム 福岡伸一動的平衡 「生命の惜しみない利他性」)


takikioも似た経験をしたことがある。今の京都駅ができた年、息子が京都の大学に進学し、何回か訪ねる中である日、ピカピカの新しい京都駅をまぶしく見まわしながら長いエスカレーターを上がっていったときに壁面の言葉が突き刺さった。花園大学の学長であった高名な僧の言葉。「答えは自分の足元にある、自分の中にある」ことを伝えている格調高い文だった。雷に打たれたような気になったことを思い出す。

メッセージはたしかに誰かに届くのだ。京都駅のメッセージは今も私のどこかにある。



12/3は京都。本能寺の会館で開催されている「没後400年 古田織部展」に行った。見終わって通りに出た途端、声をかけられる。大学の同級生。立ち話で別れるが何という奇遇。会えてうれしかった。在学中もファッショナブルで垢抜けた人だったが、60を過ぎた今も雰囲気は変わっていない。彼女に私はどううつっただろう。



福岡伸一さんのコラム、これから楽しみにしよう。動的平衡というサイエンスの概念が社会の、人の活動にも生きていること、通用する基本概念であることをこの人は世に知らしめたのだと何となく思っているのだが、あっているかしら。