新聞記事2つ

●今朝の新聞で、内田樹さんがインタビューにこう応えていた。

 「言論の自由」について、何を言ってもかまわないとか、人の発言を抑圧したり遮ったりする権利も含まれていると思っている人が多いが、まったく違うと思う。
 
 言論の自由とは、言論が行き交う場に対する敬意、信認のこと。自由に議論する場が確保されていれば、長期的、集団的にはどの意見が適切であったのかの判定が下がるだろうという、人間の集合的英知に対する信頼が「言論の自由」です。

 場の判定力があると思ったら、いろんな意見があっても、最終的には正しい意見が生き残るだろうという希望が持てる。言論を抑圧する人間は、大衆の判断力に希望を持っていない。

 沖縄の2紙がつぶれればいいと言った人は、日本人の知性に対して信頼していないということを表明している。おまえら判定力がないんだから、代わりに俺が考えてやるよと。独裁というのは、大衆は愚かだというのが前提です。

 言論の自由の唯一の条件は、黙れと言ってはいけないということ。メデイアに対してつぶれろとか黙れという人の発言を、言論の自由だからと認めたら、遠からず言論の自由はなくなってしまう。許してはいけない。 (聞き手は丑田滋記者)ほぼそのまま書き写し。




●6/25夕刊の記事「つれづれ彩時記」は京大人文研の藤原辰史准教授が「ヒトラーの遺言」と題して、

昨年、京大の全学科共通のリレー講義で担当した2回分を終えた後、工学部生がやってきて感想を述べた後「一般教養科目に現代史の講義がほとんどない」と不満を漏らし、来年は全学科向けに現代史の講義をと要望したので今年は前期に「現代史概説−ナチズムを中心に」を開講。

先日はヒトラーの遺言書を取り上げた。自殺の前日、2種類私的遺言書と政治的遺言書を秘書にタイプさせた。ヒトラー最後の政治的主張の後者には「もし、ヨーロッパの諸国民がふたたびこの国際的なカネのと金融の陰謀家どもの株券の束としかみなされなくなるとすれば、この殺しあいを引き起こした張本人であるあの民族はまたもや責任を問われることになるだろう。その民族とはすなわち、ユダヤ民族のことだ!」

1939年9月1日に自分で引き起こした戦争の責任から逃れ、「ユダヤ民族」に押しつけようとしている。

汗を流して働くドイツの民衆が「金融の陰謀家」たる「ユダヤ人」に対置されている。

学生に感想を聞くと「ヒトラーユダヤ人憎悪がここまで強烈とはしらなかったが、この憎悪は創出されてきたような感じがする」と言った。

私も遺言書のユダヤ人憎悪に作為のようなものを感じる。自己の支持率を高めるために民族憎悪というわかりやすい俗情に訴える、すると国民も憎悪がかきたてられる、そのうち、仕掛け人もまたその虜になっていく。こんな輪転機のような憎悪製造マシンは最近の日本列島でも量産されている。

創出された憎悪は戦争に巻き込まれたときの責任逃れに利用されやすい。凄まじい数の若者達の生命を消しておきながら、あれはあの人達のせいだったから僕のせいじゃないよと言って、勝手にあの世に旅立つような56歳の男の卑怯。

安保関連法案の審議で、戦地の錯乱と死屍の臭気と殺人の悔恨を語らない国会のおじさんたちの顔に、私はこの男の卑怯が透けて見えてならない。端折って圧縮して記載。文責はtakikioにあり。


戦争と聞くと私は昨年、NHKの番組で観たペリリュー島のドキュメンタリーを思い出す。具体的な『戦地の錯乱と死屍の臭気と殺人の悔恨』が如実に語られていた。戦争の現実を遠くにおいておいてのやり取りで煙に巻いている感じがする今の状況。あの悲惨を知ったなら、戦争は避けよう、何としても避けよう、どうすれば避けられるかという論議になるのが普通である。まして憲法があるのに。