感謝

義兄の容態は徐々によくなってきて、義姉も落ち着いてきた。

一方で同窓会の総会が近づき、会計である私の仕事もきちんと準備が必要でなかなかハードな毎日だったが総会も無事終わって一段落。

息子もかかわる総会だった。というのは今年の総会ではシンガーソングライターとして活躍している卒業生を呼んで、トーク&ライブを企画。事務局として去年から準備にかかっていた。

その話がもちあがったときにマネージャー氏から音響のプロをちゃんとつけてほしいという要望があった。

私がうちの息子はそういう仕事をしているとぽろっと口にすると事務局長が息子さんに頼んでくださいとおっしゃり、とんとん拍子に話が進み、本番前日の音合わせから神戸入りをしてシンガーソングライター氏と打ち合わせをする予定になった。

義兄の様子が思わしくないので息子に見舞いをさせようとその打ち合わせの前日に帰ってくるように言い、新幹線の着く西明石に迎えに行き、その足で淡路の義兄の病院に連れて行った。夜は義兄宅に息子と一緒に私も泊まる。翌日の朝の見舞いでようやく義兄は目を覚まし(前日の2回の見舞いでは眠り続け呼びかけにも応じなかったのだ)、はっきりわかる目で息子を見たのがうれしかった。そして腫れが引いてきているという主治医の話もあり、ほっとして病院を後に息子を乗せて神戸に向かった。

その日は音合わせが終わると、事務局長のご厚意で私たち親子も交えて、シンガーソングライター氏とマネージャー氏、同期で学生時代親しくしていたという人を二人、事務局員何名かと会食をした。シンガーソングライター氏は気さくで親しく話をさせていただき、その上、彼女と同期の一人は私の初任校での教え子であったので話も弾み、疲れてはいたけれど愉しいひとときを過ごした。この教え子がまた、すごい人で大きな商家に嫁ぎ、家業をこなしながら子どもを4人産み育てしかも50歳を過ぎた今、外見も心もキラキラ輝いている。彼女が言った。「先生が産休に入られて、でも少し休んだだけで戻ってこられて、あのときの子どもさんですか。」そう。初任校で子どもを二人産んで、ちょうど育児休業の制度が始まっていて、上の子は11月末の生まれだから1月末に産休が明け、その2月、3月と育児休業をいただき、4月から復帰。2歳下の下の子は12月末の生まれで同様に2月末で産休が明け、一ヶ月の育児休業をもらい、4月復帰。その二人目の時にあななたちの学年を教えたと思う。要領もよくない、未熟な私はときに明日する授業の教材研究の方が先で我が子をほったらかしにしてがむしゃらに働いてきたのだ。お母さんは私たちより学校のお兄ちゃんお姉ちゃんの方が大切なんだねと言われながら。彼女は乳母車に子どもを寝かせた横でレジ打ちをしたと言った。

翌、本番当日、総会行事が終わり、昼食のあと、いよいよトーク&ライブ。彼女の澄んだ歌声、学生時代のエピソードを交えての先輩、後輩、同輩へのメッセージも入ったトークも秀逸で、あっという間に時間が経った。

彼女への花束贈呈の後、今度は息子がステージに呼び出され、紹介され、花束まで渡してくださった。そして会計をしているtakikioの息子さんですという紹介までしてくださった。そして何かひとことと言われて息子は「母がお世話になっています。こんな会でPAの仕事をするのは初めてでしたが勉強になりました。」とわかったような、わからないようなコメントを言い、舞台を降りてきた。事務局の皆さんの温かい配慮がうれしかった。

周囲の反対を押し切って上京して、14年。こんな日が来るとは夢にも思わなかった。息子とこんな形でかかわるとは思いもよらなかった。

そして息子の技術は親のひいき耳を差し引いてもなかなかのもので音がクリアで、出席者からも評価していただき、そして何よりシンガーソングライター氏とマネージャー氏からも感謝の言葉をいただいて、むだに14年を過ごしてこなかったのだとうれしかった。

支払い、総会の会計報告を済ませたら、どっと疲れが押し寄せ、今日ようやくたまっていた家の仕事ができた。


思い返してみて、今回の一連の経過は自分のこれまでの人生において特筆に値することだと改めて思った。そして神様というのはときどきご褒美をくださるのだと思った。これからも一生懸命生きていこう。自分なりの精一杯を積み重ねていこう。