インターネットの誘惑「私の文章を引用しないで」 新聞記事(朝日3/14朝刊)より

マリア・コニコワというニューヨーク在住の作家の文章(訳)をtakikioが例によって自分の感覚で端折って、今回はほとんど丸写しで、紹介。文責はtakikioにあり。


「私は引用された言葉が嫌いだ。あなた自身の言葉で語ってくれ。米国の思想家ラルフ・エマソンは、1849年の日記にそう書いている。彼は私たちのよくある傾向に言及しているのだ。つまり、じっくりと考えさせられるような問題に直面すると安易な逃げ道に走ろうとする、と。「著述家たちはこの問題(ここでは「不死」)を持ち出した途端に引用を始める」。引用は思考に深みを加えるのではなく、思考を避ける方法となっている。

 さて、現在のインターネットの世界。エマソンならインターネットをどう思っただろう。これは、彼が軽蔑した非思考型人間に無限のネタを提供する場である。そこには文脈から切り離された知識、すなわちリンクやツィート、投稿といった形でひっきりなしに流れる断片に支配されている。

 だが、オンライン文化をどれだけ厳しく批判する人であろうと「明日、インターネットに消えてほしいか」と尋ねられたら、大笑いするだろう。院他ネットは、エマソンのすべての作品が手に入り、検索できる場でもあるのだから。深く掘り下げようと思えば、思考や分析の足がかりが欲しいだけ手に入る。(紀元前300年頃に世界中の文献を収集した)アレキサンドリア図書館の夢の実現である。

 ほぼすべての他の20代と同じように、私は、目が覚めた瞬間から寝る間際まで、ずっと電子空間につながっている。ただ、私はものを書いたり考えたりする必要があるときには、すべての電源を切る。そうしないと、あまりにもあっけなく、エマソンが警告する「渦」のようなものに飲み込まれてしまう。それぞれの断片が意味する全体像を立ち止まって考えることなく、その断片の波間を漂ってしまいそうなのだ。

 問題は、無限の情報に応じる時間とエネルギーが限られていることである。「知識」というものは圧倒的な情報量で脇へ追いやられ、文脈などどうでもよくなってしまう。

 例を挙げよう。私は政治における個人の権利について記事を書いているとする。私は引用文をグーグルで検索し、「自由は貴重だ」という言葉にたどり着く。これはぴったりだ。しかしその後、それがレーニンの言葉だとわかったらどうだろうか。そして彼が、この心地よい言葉のすぐ後に「貴重であるからこそ、制限して配らなければならない」と付け加えていると知ったら。

 芸術において脱文脈化は対象に新たな意味を与えることができる。だが、著作においては、その新しい意味が問題となる場合がある。文脈をそぎ落とすと、本来意味するところを見極めるためのすべてをそぎ落としてしまう。言葉そのものが飾りとなる。想像力をかきたてられても、おそらく、その本質がはぎとられてしまう。理解力を取り戻すには、より伝統的な手法が必要だ。つまり、正確な筆づかいですべての要素を完全に描いた詳細な絵が必要なのだ。

 私は、不死についての自分の考えがよくわからないから、困難な作業を成し遂げた誰かから拝借し、すぐに使える「これだ!」というものを見つけたいのである。

 インターネットそのものが悪いわけではない。人の言葉を勝手に引用したり、引用を強要したりするわけではないのだ。だが、オンライン上では、ほとんどがよかれと思ってやっているにもかかわらず、問題は次々に増えていく。インターネットが引用を手招きしているのだ。インターネットを頼みの綱としてではなく、材料として利用すると誓いを立てて、しっかりした具体的な考えを念頭に置いて始めたとしても、知らず知らずのうちに誘惑に引きずり込まれることは少なくない。

 オンラインでうまくいっているのは、スピードの質である。「一番手」であり、迅速であることだ。ある調査によれば、フェイスブックの投稿など、投稿文が短いほど、読んでもらえる可能性は高まるという。「tl;dr (too long;didn't read/長すぎて読まなかった)」という略語が使われる最近の潮流について考えよう。簡潔さと即時性を重視することは「いいとこ取り」にはもってこいであり、文脈にとっては憎むべきことである。

 エマソンは、実際にはそれほど引用を嫌ってはいなかった。彼が嫌がっていたのは、現実の思考を手っ取り早く済ませたいという衝動である。インターネットがその衝動を生み出したわけではない。だが、その衝動はインターネットによって格段に魅惑的になり、簡単に満たせるようになった。

 エマソンはそのこともわかっていただろう。「愉しむためや、手にしていないものを得るために旅する者は、自分を置き去りにして旅をしている」と警告している。エマソンの時代でさえ、人々は情報収集のためにさまよい歩くゾンビだっったのだ。

 彼の解決策とは何だったのか。それは自分自身の文脈を見失わないことである。当時であれば目にするもの(sight)をあれこれと、今ならサイト(site)からサイトへ渡り歩くときでさえ、エマソンが言う「自己修養」をいつも心に置き、思慮深く行動することだ。そうしてこそ、「侵入者や従者のようにではなく(堂々と全体を見渡す)君主のように町や人を訪ねる」人物になれるのである。


時宜を得た記事と思ったし、文脈を見失わずに詳細な絵を示して立ち止まらせ、その上、心がけまで提示してくれた、有り難いコラムだった。
「自分の文脈を見失わないこと」---大切な言葉に出遭った。