小さいおうち2 追記あり

この映画では着物がというか帯が重要な働きをするのですが、

ナレーションに「いっぽんどっこ」とあったのです。

「いっぽんどっこ」と聞くとすぐ私の頭の中ですぐ「どひょういり」と続くのですが映画を観ながら「いっぽんどっこ」って何だろう、帰ったら調べなきゃと思いました。

ググると「いっぽんどっこ」は「一本独鈷」で仏具の真言密教の法具の一つで、もともとはインドで武器として使われていたものが、様式化されて煩悩を打ち砕く法具とされたものとありました。

どなたかがアップされた画像を使わせていただいています。

これが文様化され博多帯に使われているようです。

これもどこかの着物店がアップされていた画像を拝借しています。

この縞模様が1本になりしかも単なる筋になったものをどうも「一本独鈷」といっているようです。

これもどこかの着物店がアップされていた画像を拝借しています。

上記画像の奥の帯が「一本独鈷」です。

この1本筋がこの画像のように真ん中ではなくて端に寄っているところがポイントなのですがそれはネタバレになるので詳しい説明はしません。

で、なぜ『「いっぽんどっこ」と聞くとすぐ私の中ですぐ「どひょういり」と続くのか』、これもググってみました。

どうももとは一本刀の土俵入りだったのがどこかでだれかが勘違いしていっぽんどっこのどひょういりというようになりそれが定着しているようなのです。

はっきりどういう変遷を経てそうなったのかということまでは辿れませんでしたが【いっぽんどっこのどひょういり】と打ち込むとヒットするのである程度は流布している言葉なのでしょう。

長谷川伸の戯曲「一本刀の土俵入り」、改めてあらすじを読みました。なんとなく知っていたつもりでしたが、よくわかっていなかったことがわかりました。一本刀って武士は大刀小刀の二本を腰に差していたのに対して、侠客は長脇差一本であるところから侠客のことなんですね。せっかく助けてもらったのに約束の横綱にはなれず俠客になってしまった茂兵衛、それは理解していたつもりですがお金をくれたお蔦の娘、お蔦の家族というのもからむ話なのでした。

そしてこの戯曲をモチーフにする同名の歌謡曲「一本刀の土俵入り」は4曲もつくられているんですね。

それから歌謡曲といえばそのものずばり「いっぽんどっこの唄」という水前寺清子さんの歌がありましたね。何も思わずに聞いていました。いっぽんどっこって何だろうと思っても良さそうなのに何も思わなかった。


なお、この一本独鈷という言葉、極道用語では「一本」「独」というイメージから転じて「大組織に所属せず独立を維持している組織のこと」を表すようになっているそうです。

この後、「暮らしの中の仏教語」というサイトをみつけました。以下に引用します。

独鈷・いっぽんどっこ
 皆様は水前寺清子さんの唄う「いっぽんどっこの唄」を御存知でしょう。「ぼろは着ててもこころの錦 どんな花よりきれいだぜ・・・」というあれです。あのいっぽんどっことは何でしょうか。どっこを漢字にすると独鈷(独股・独古)と書き、インドラ紙の武器ヴァジラ=鈷に由来します。この鈷は怨敵を征伐し悪魔を払う道具とされましたが、仏教に取り入れられてからは、護身具であり煩悩を打ち砕く法具とされました。密教では大日如来の真如法界を標榜するとともに、雑念を振り払って真っすぐに行くという教義を表すものとされてきました。
 鈷は金属か象牙製で、握りの両端に一つの爪のあるものを独鈷と呼びます。またここが三爪であれば三鈷、五爪であれば五鈷と言います。その昔弘法大使は、この三種の鈷を、修行先の大唐より日本へ投げられました。独鈷は室戸岬へとまり、三鈷は高野山へとまり、五鈷は京都へとまったそうですね。その後それぞれの所へ最御崎寺新義真言宗豊山派)、金剛峯寺高野山真言宗)、教王護国寺東寺真言宗)の三ヶ寺が、弘法大使開基の寺として建てられております。
 また、弘法大使は、常にこの鈷を所持なされ、各地に涌出させたという弘法の井戸や弘法の湯(トッコ井戸、トッコの湯)も、この独鈷で掘り当てたそうです。いろんな場面に出番がある一本の独鈷ですが、やくざ者はこれにあやかって一本刀を一本独鈷にたとえ、漁師は自分の銛(もり)を独鈷にみたて、芸者はこの独鈷を帯に染めて「どっこ帯」としました。独鈷形の模様を連ねて一筋織り出した博多帯が有名になり、どっこの名を世間へ広める働きをしたようですね。
 歴史はともかく、私たちも是非この独鈷にならって、精神的な独鈷を心の中に所持し、大日如来に護身されながら、煩悩なき明るい未来を切り開いてゆきたいと念ずる次第です。