takikioの自分勝手な引用その2

「身体知 カラダをちゃんと使うと幸せがやってくる」内田樹 三砂ちづる
よりtakikioの自分勝手な引用

異質を受け入れる

三砂:うちには男の子が二人いて小さい頃、ブラジルで育った。ブラジルではむちゃくちゃにキスされて抱きしめられて濃く生きてきたのでいろいろのものの共用をいやがらないし、知らない人が寝たあとの臭いがするベッドにもぐりこんで寝ても平気。そういうことにはルーズに育っていて私はいいことだと思っている。

内田:ぼくは「デオドラント」という考え方がどうも。デオドラント先進国アメリカの後を日本も追っている。悪臭を発するものはいくらでも攻撃していいという社会になっている。臭気のことは医学的な用語で語られることが多いが本質的には心理的な問題だと思う。

口臭がするのはいやだというけれど臭気なんてフィジカルに言うと単なる「粒子の密度」の程度の差。

日本人の語彙に「歯槽膿漏」という語が登録されたのはたぶん1970年代。それまでは単に「口のくさいヤツ」と言われていたのがある段階から「病人」になってしまった。その頃から臭いに対する非寛容な態度が定着していったような気がする。

献酬の習慣も廃れた。昭和40年頃の日本映画をみていると必ず献酬している。酒席でとりあえず自分の杯を差し出して「ま、一献」と。同じ杯でお酒を回し飲む。これが非衛生的だというのでいまではもう誰も献酬なんてやらない。(廃れず残っているのは茶事の席での千鳥の盃ぐらいかも)水や煙など「分割しえないもの」を共有し合うというのは共同体を立ち上げるときの伝統的な儀礼だと思っている。そういうやりとりをすることで自他を包み込む共同体が立ち上がる。

共同体って「自他の境界線がはっきりしないものがいっしょにいる」ことだ。

いろいろな儀礼は基本的にそのことを確認するためのものだと思う。自分の存在の外壁と相手の存在の外壁のそれぞれに隙間を空けて空いてから流れ出るものを受け入れ、相手の中に自分の中から出るものを注ぎ込む。だから体臭とか唾液とか汗とかを受け入れると言うのは本来、人類学的に大変重要な儀礼だと思う。仲良くするために「鍋を囲む」のだって、キスして「唾液を共有する」のだって共同体儀礼だ。

そういう根源的な局面で、非衛生的とかそういう「せこいこと」を言ってほしくない。

見知らぬもの同士で焼き鳥やおでんのやりとりはできないけれど煙草や酒のやりとりはできる。それは酒や煙草、液体や気体が、私有財産で囲い込まれた個の壁に隙間を開くからだ。

人間はいまでもどこかに太古の時代に人類が初めて共同体を構築した時の原書の記憶をとどめている。そういうものをすべて切り捨てることをぼくは少しもいいことだとは思わない。

「衛生的」というのは言い換えると「異物はオレのエリアに入ってくるな」ということだ。そういう傾向が強化されるのが果たして共同体にとっていいことか。

私のものでもない、あなたのものでもない「中間的な領域」にこそ豊かなものがあるということを誰もアナウンスしない。私も理解できないしあなたにも理解できないような、どちらにも属さない「中間的な言葉」やまだメッセージになっていない音声こそが共同体を基礎づけるということを誰もきちんと教えない。

むしろ、そういうどっちつかずのものを不快であるから排除したいと感じるような感受性だけが肥大している。ものすごく危険なことだと思うのだ。