takikioの自分勝手な引用その1

「身体知 カラダをちゃんと使うと幸せがやってくる」内田樹 三砂ちづる
よりtakikioの自分勝手な引用

(対談であるがおもしろい本だった。特に内田樹の語ることはときに示唆に富み、ときにtakikioの思っていることを言語化し代弁してくれた。暮らしの手帖にこの人の住まいが紹介されている。道場と私宅とおなじ建物に。道場がときに能舞台にも変わる。鼓をされている若い夫人と今がたぶん一番しあわせのとき。話がそれた。しばらくこの本から途切れ途切れに紹介していきたい。)

「異質なもの」との折り合いのつけ方

結婚と仕事を相殺的な関係にあるものとして見なしている人間がいて、それを誰も怪しまないというのがぼく(内田)には不可解なのだ。

「妥協」と「許容」は違う。自分と違うものが自分の世界に入ってきたときに「そういうものもありか」と思って自分の範囲を広げて応接するのは「許容」であって「妥協」ではない。

でも今の若い人たちの話を聴いていると新しいファクターが出現してそれを受容できるサイズにまで自分自身の器量を大きくしていくことを「妥協」だと思っている。異質のものを受け入れるのが人間の自然であるということがわかっていない。それが人間にとってある種の尽きせぬ快楽であるということがわかっていない。

思春期の12〜15歳頃は身体が急激に変化するから身体と心にずれが生じる。自分の発する言葉も身体も異質なものに感じられてくる。そのときにどうやって自分という異質がもたらす違和感と馴染んでいくかというところが他者とのコミュニケーションの重要な修行のプロセスと思っている。

自分自身とさえ違和感があって当たり前なんだとそういう事態そのものをうけいれる。そのときに思春期がのり越えられて次の段階に進める。

自分自身の中の異質なものとの折り合いのつけ方を学習した人間は自分の外にいる異質なものとの折り合いのつけ方もわかる。

自分自身が純粋で完全なアイデンティティの統御された存在ではなくて自我と他者の境界線なんてもともとぐちゃぐちゃに入り組んでしまっているものだということがわかっているから他人が目の前にいて、よくわからないことを言ってもしても平気なのだ。

多少の違和感は許容範囲なのだ。

若い人たちはそういうあいまいな自己同一性というものにたぶん耐えられないのだ。輪郭のくっきりした「私」をなんとか維持したい。それが外界との関係で維持しきれないとバンと切れてしまう。

そのときにたぶん彼らは中から「本当の自分」というナチュラルでピュアなものが出てくると信じているんだろうけれどそのときに出てくるのは何となくドロドロした薄気味悪いものなのだ。「仮面」の方がよっぽど人間的なのだ、たいていの場合。

「私」を閉じたシステムとして、閉鎖的で線形的な系として考えている限り、異質なものはひたすら不快なものであり、排除すべきもの。そういう自我中心的な発想を棄てない限り、学びもコミュニケーションも成立しない。エロス的な結びつきも成立しないし結婚も成立しない。