覚書その4

いよいよ最後の茶碗。「喜左衛門」国宝。

井戸茶碗は16世紀の中ごろに慶尚南道キョンサムナムドの山間の窯で焼かれた名もなきしかし極めて非凡な技を持つ陶工によって焼かれた茶碗。

曜変天目や油滴天目は世界に類を見ない稀に見る美しい釉景色の器で日本の国宝になっている。しかし、天目はすべて画一的な形に成形されていてその姿は井戸茶碗のような独特の風格はまったくない。なぜに唐物茶椀の賞玩が廃れたかを推測するとその形体にあるのではないか。

茶碗という器に大いに感情を移入して茶器を観賞するようになった侘び数寄の美意識は焼き物としてはいわば雑器に等しい粗相なものではあるが言葉にはつくしがたい風格を備えた井戸茶碗に感応した。

慶長のころに竹田喜左衛門というひとが所持していたこの茶碗が400年後に日本の国宝となる由縁はそこにある。このような美的価値判断は世界の文化国家にあって他にないだろう。自国の所産でもなく、祭器ではあったろうが、いわば雑器に等しい碗である。それが茶の湯で賞玩されたという歴史によって国宝に指定されたのであった。

「喜左衛門井戸」には数奇な伝説が語り伝えられている。最初の愛蔵者は町人の竹田喜左衛門。本多能登守忠義、中村宗雪の手を経て塘九兵衛にわたる。酒色におぼれた九兵衛は一文なしに落ち果てても「喜左衛門井戸」だけは首から下げて離さなかった。やがて三日三晩の熱病と腫れものに苦しんで死没。売りに出された茶碗を松平不昧公が入手。この茶碗にほれ込んで毎朝これで茶を喫したが原因不明の腫れものを患い一進一退の末に亡くなる。息子も同様の腫れもので早世。これぞ茶碗の怨霊と不昧公の未亡人はゆかりの大徳寺孤篷庵に寄進する。

これで22碗。大変勉強になった。これからも写真集で、あるいは展覧会にでかけて実物を拝見することで勉強を続けたいとにわかかつ貧乏茶人のtakikioは思う。