はたらく気持ち

朝日新聞の土曜版のシリーズ、田中和彦さんが書いている。ずっと楽しみに読んできた。朝日から他紙に変えないのは事件・出来事報道から少し離れたところの記事も読み応えがあるからである。

この人は温かく厳しい目を持っている。誠実に取り組んでいる人へのまなざしが私好みである。
2/18版のタイトルは『「キレたらおしまい」の哲学』

東京都内のタクシー運転手Nさん(60)は30枚の千円札と2枚の五千円札を必ず揃えてから車に乗る。これくらい準備しておけば続けて一万円札を出されても対処できるからだ。

先日も同僚が朝から立て続けに万札攻撃に出くわし、釣りに困った話を聞いた。

駅から若い女性客を乗せ、ワンメーター先のビルの玄関に車をつけて「細かいお金は御持ちじゃないですか」と尋ねても「早くして!」の一点張り。「すみません、朝から大きな札が続いて---」とわび、クレジットカードや電子マネーでも大丈夫と伝えても「早く!遅刻しちゃうよ」「じゃあ、コンビニで両替してきますから」と言った途端、いかにも最近の若者らしい口調で「ありえない!」ついにキレた同僚は、「もういいよ」と自腹を決め込んだ。すると、その客は平然と降りながら「それでもプロなわけ?」という捨てゼリフ。

以前なら、「万札でお釣りありますか?」と客の方があらかじめ確認して乗ってくれたが最近の若者にそんなマナーは期待できない。

怒り冷めやらぬ同僚を、「この仕事はキレたらおしまい」といさめたNさん。運転手に転身して10年。かつては医薬品の営業マンだった。

相手のわがままをひたすら聞くのが仕事だった。プライドを捨て、どんな状況にも絶対に耐えてみせると事前に腹をくくれば、意外にキレないで済むことはこの時の経験で学んだ。

そのかいあって、運転手になってからもキレたことはない。ただ一度だけ、キレる寸前にまでいったことはある。

深夜に銀座でクラブのママとその常連客らしき男性を乗せた時のこと。まず女性から行き先を告げられ、走っていると、「いつもと道順が違う」と責められた。ひたすら謝ったがののしりは30分もやまずたまりかねたNさんが「今回は料金をいただきません」というと「お金の問題じゃないのよ」と火に油を注ぐ結果になった。女性が降りるまで攻撃は続き、「ありがとうございました」の声が震えた。

そのまま残った男性客を運んでいると、「運転手さん、よく耐えたね。あんたすごいよ」と声をかけられた。「今日は客が俺一人。閑古鳥が鳴いて、八当たりだよ」と。その男性は何も言えずにすまなかったと、チップを弾んでくれた。

「キレたらおしまい」の哲学がさらに強固になる経験だったのはいうまでもない。

(端折っていたり、言葉を変えているので文責はtakikioにあり)