亡くなられてから触れる

大学で同じ研究室で3つ下だった人と在学中は全く話などしたことがなかったのに、ついていた恩師が亡くなり、そのお通夜と偲ぶ会で顔を合わせて何だか親しくなり、交流が続いている。

彼女が誘ってくれた、やはりこの2月に亡くなった別の研究室の恩師の会に大阪駅で待ち合わせて、参加した。

無機化学を教わったその先生は、俳人でもあり、私が入学した年に第一句集『70万年』で現代俳句協会賞という大きな賞をとられた。

何かの折りに俳句を始めたのは入った大学でやはり俳人であった莵原逸郎先生の「春めくや物言うタンパク質にすぎず」という句に出会って衝撃を受けたのがきっかけだったと話されたことがある。

無機化学の講義は面白く、たとえ話などに独特の味があって、こんなふうに化学を語れるなんてすごいなと尊敬のまなざしで眺めたものだ。好みがはっきりされていて、少し気むずかしくて、少し無頼でネクタイを締めておられるのを見たことがない。夏は半ズボンで研究室におられた。スリムで風貌もスキッとされていて色白で永遠の少年と表現している人もいた。

退官されてからは俳句にさらに打ちこまれ、平成19年には第7回現代俳句大賞、平成25年、第十句集『風車』で第64回読売文学賞(詩歌俳句賞)を受賞される。

先生を慕って卒業生が先生のお話を聞く会(俳句の話もあれば、化学や科学の話、日々雑感であったり、とにかく先生のアンテナに引っかかったことを話される)をつくり、毎年開催され、私も誘われたのについに参加せずじまいだった。

参加しなかったが化学の教師でずっと過ごしてきた間、いつも私の頭の片隅にこの先生がいたような気がする。

この日は俳人としての先生の生涯をいろんな方が語る会だった。

亡くなられてから触れる、恩師の生涯。

奥様は生物学科の教授をされていた方で私も教養で習った。
会場でお会いしたとき、「まぁ、◯◯さんね!」と私を旧姓で呼ばれた。
思いもかけないことだった。卒業、修了以来の40年ぶりの再会である。
覚えてくださっていたのだ。

同じ方面に帰る先生たちが連れ立って駅に向かわれる姿をよく見かけていたが、道ですれ違う学生たちをけっこう話題にされていたようで私のことはある先生が「小さい手で試験管持って一生懸命、実験をがんばるんや」と言われていたのよとアイ子先生がおっしゃった。

不覚にも涙がこぼれた。学生一人一人をそんな温かい目で先生方が見守ってくださっていたのだなと64歳で知る幸せ。

ぽっと胸に灯りがともって家路を急ぐ。