いわさきちひろに出会い直す

明石市立文化博物館で開かれている「ちひろ美術館コレクション ちひろと世界の絵本作家たち」を友人に誘われ、観に行ってきた。

丁寧にポスターなど人は見ないから、私も含めて訪問者はほとんどが『いわさきちひろ展』だと思い込んでいる。

えっ、こんなにちひろさんの作品は少ないの!?と思う。作品数で1/6ぐらいの割合なので・・・、そこで改めてタイトルに納得する。

1階のロビーで「黒柳徹子いわさきちひろ」と題したビデオを流していた。これが私に来た甲斐があったと思わせた。

1974年訃報を伝える新聞記事を見て、徹子さんは大きなショックを受ける。会いたいと思い会えると思っていた人が死んだ。。。息子さんに花束とお悔やみ文を送り、そこから具体的に関わりが始まる。亡くなってから関わり始めるというのが胸を打ち、でもそういうこともあるのだなと思った。

窓際のトットちゃんの挿絵を描いて欲しいと願っていたのにかなわなかったということが息子さんに伝わり、息子さんはちひろが残した素描の中に使えるのがみつかるかもと提案。そこでまるでやりとりしての挿絵と思わせるコラボが実現。世界中に750万部が出た。

あんな素敵な子どもたちの絵を描くちひろは才能を持ち、順風満帆の人生であったと思い込んでいたのが、悩んで悩んで人生をさぐってきた人だと知ってさらに徹子さんはちひろに惹かれる。

ちひろの母は女学校の教師で単身赴任で満州に渡り、日本からの「大陸の花嫁」の橋渡しに大きく貢献した人。その母を訪ね、書道でも才能を開花させていたちひろは書道教師として満州に渡る。

それまでの恵まれた人生の中で初めての挫折を乗り越えてのことだったが、ウィキペディアに助けてもらう。

1939年(20歳)4月、三人姉妹の長女だったちひろは両親の薦めを断り切れずに婿養子を迎えることになった。相手の青年はちひろに好意をもっていたものの、ちひろのほうではどうしても好きになれなず形だけの結婚であった。6月にはいやいやながら夫の勤務地である満州・大連に渡ったが、翌年、夫の自殺という不幸な結果により帰国することになった。ちひろは二度と結婚するまいと心に決める。帰国したちひろは中谷泰に師事し、再び油絵を学び始めた。再度習い始めた書の師、小田周洋は絵ではむりでも書であれば自立できると励まされて書家をめざした。
1944年(25歳)には女子開拓団に同行して再び満州・勃利に渡るが、戦況悪化のため同年帰国した。翌年には5月25日の空襲で東京中野の家を焼かれ、母の実家である長野県松本市疎開し、ここで終戦を迎えた。ちひろはこの時初めて戦争の実態を知り、自分の無知を痛感する。終戦の翌日から約一か月間の間にここで書かれた日記『草穂』が現在も残っている。「国破れて山河有り」(杜甫)と記されたスケッチから始まるこの日記には、こうした戦争に対する苦悩に加え、数々のスケッチや自画像、武者小路実篤の小説『幸福者』からの抜粋や、「いまは熱病のよう」とまで書かれた宮沢賢治への思いなどが綴られている。


戦後、両親は戦争協力者として大きな非難を浴び、東京大空襲で家を失ったこともあり母の故郷、信州で両親とともには開拓の仕事に勤しみながら一貫して戦争反対を訴えてきた日本共産党に両親に内緒で入党、松本善明と出会い、結婚。一児をもうける。

という人生を知ってさらに徹子さんはちひろに大きくのめり込み、二つの美術館の設立にかかわっていく。


ちひろさんのことを少しは知っていたつもりであったが、このビデオで出会い直した感じがする。

誘ってもらってよかった。