運命

で、短歌同好会のおしゃべりお茶会、先祖とおつおやの歌を作った方は「私は戦争がかかわって生まれた子なのよ。満州に教師として兵庫県から派遣された父と同じく広島から派遣された母が出会って結婚。終戦は2才で大変な思いで引き揚げてきたの。」という話をし、引き揚げ後の母上の苦労を語ってくださった。

その話を聞いて私はその前日の夜、見たテレビを思い出した。

「こんなところに日本人が」(結局、テレビをやめる話は今の所、沙汰止み----)という番組でチェコスロバキアに住む日本女性をたずねる。

日本に留学していた夫君に見初められ、チェコスロバキアで結婚、住むものの余りの異文化、特に言葉がわからなくて(数ある言語の中でもチェコスロバキア語はかなり難かしいらしい)引きこもり状態になり見かねた夫は再び日本に留学、九州大学大学院で農学を学びその後、九大の教授になり二人の女の子にも恵まれ順風満帆の9年目のある日、大使館からの電話、2011年3月16日。大統領専用機で日本にチェコスロバキア人を迎えに来るがあなたたち一家はどうするか。迷った末、飛行機に乗ることを選択する。小学生になっている子どもたちは現地の小学校に1学年遅れで編入

学年末になり、もらってきた通知票を見て両親は驚く。どの教科もA評価。チェコスロバキア語、国語も。母親は目が覚める。子どもたちがこんなにがんばっているのだから、私も頑張らねば。自分から積極的に関わり、言葉も馴染んでいく。今では買い物も一人で(チェコスロバキアでは商品はパック入りじゃなくて店の人とやりとりしないと買えない。前は買い物すら一人で行けなかった)行けるようになった。

子どもたちのがんばりが親を変えた。

話していると目の前の、同好会の人が目を潤ませている。それにつられ私も涙腺がゆるみ、またそれが伝染し----

年に4回会う人達だが、いいお仲間ができたと幸せ感に浸るひととき。


で、引き揚げの際の無理がたたって数年後父上はほぼ寝たきりになり、高校2年のときに亡くなられるのだが、その葬儀の際、母上は真っ白の綸子の着物を着、それを見た村の人達の息を呑む様子を今でもはっきり覚えていると友人は言った。二夫をまみえずという固い決意。慣れない兵庫の奥の地で慣れない百姓仕事にも精を出し、教師を続け、子どもたちを育てられた。

二つの物語が私の中でつながったのだった。