4/23の朝日新聞から

耕論 原発政策 欠けた視点

原子力政策をどう進めればいいのか。今のままで十分なのか。

●藤垣裕子氏(東大教授 科学技術社会論) 聞き手:辻篤子記者

原発の再稼働差し止めを求めた仮処分の申し立てについて二つの地裁の異なる判断。何故異なるのか、議論すべき。とりわけ福井地裁の決定については社会に対する問題提起として受け止めるべきだ。

同じ裁判長が昨年5月、大飯原発をめぐる訴訟でも住民側勝訴の判決を言い渡したがその中で、人々が生命を守り生活を維持するための人格権を前面に打ち出し、経済活動としての原発の稼働はそれより劣位にあるとした。また福島第一原発の事故後にそうした重大事故の具体的な危険性が万が一でもあるかという判断を避けることは裁判所に課せられた最も重要な責務を放棄するに等しいとも言っている。

今回の高浜原発の決定も具体的な危険性を認め、いずれも相当の覚悟を持って書かれた画期的な判断だと思う。反原発か推進かといったレッテルを貼って矮小化するのではなく、議論のきっかけにすべきだ。

提起された問題の一つは、私たちが求める豊かさとは何か。原発が動かないために燃料代が増えて貿易赤字が出ても、人々が安心して暮らせることに重きを置くのか、つまり人格権は電力など経済より上だと考えるのかどうか。

第二は原発ガバナンスのあり方。原子力規制委員会が再稼働の前提となる新規制基準をつくったが専門家による閉じられた空間で決まり、社会の声は反映されていない。専門家と市民では安全の考え方にギャップがあるのに埋めようとする努力がされていない。

第三は政策決定のあり方。民主党政権が2012年に将来のエネルギーに関して行った討論型世論調査などは世界的に注目され、「日本ではエネルギー政策に国民を交えた議論をやっている」「原発事故は日本の公共政策をこんなにも変えたのか」と国際会議などでもよくいわれた。原発事故後の日本がどう変わるのか世界で注目されている。市民参加のあり方についてあれだけの事故を経て何も変わらないとなったら、恥ずかしいし、日本という国への評価も下がってくるのではと心配。

米国の科学技術家は原発事故後、日本の原子力技術者は米国の技術者が直面してきた「世間一般による監視の目」から余りにも切り離されていたことに驚いたと書いた。原発のように不確実性がからむ科学技術の問題は専門家だけの判断に任せるわけにはいかない。欧米ではこの監視の目が重視され、たとえばどこにダムをつくるかといった問題でも市民を交えた議論が不可欠。意見の違う専門家、一般市民の意見をいかに取り込むかが極めて重要。

「世界一厳しい基準」というだけでなく、なぜこの数字なのか説明することが不可欠だ。このプロセスが依然として踏まれていないことが不信感を生んでいる。本来、こうした議論をし、監視の目となる場は国会であり、メディアや社会運動などの公共空間だ。高浜原発大飯原発については裁判所がいわば監視の目としての役割を果たしたことになる。公共空間での議論が十分でないために司法がその役割を負わされたということだろう。しかし、裁判所だけがそういう場ではないはず。どんなエネルギーを選び取るのか、市民が議論して決定に参加するシステムをつくるという課題が社会に突きつけられている。

要約した見出しは『議論に市民交える仕組み必要』


●寺島実觔氏(日本総合研究所理事長) 聞き手:池田伸壹記者

もし真剣にこの国が脱原発を選択するなら大きな覚悟が求められる。米国の核の傘から出て日米原子力協定を解消し、日立−GE(ゼネラルエレクトリック)、東芝ウェスチングハウスといった「原子力共同体」と呼ぶべき構造を解体する。善意で頑張れば脱原発が可能になると思っている人が多いと思われるが、甘えと依存から脱する覚悟を持った人がどれほどいるだろう。

原子力政策は本来、国家の統合された戦略として、政府が責任を持って提示すべきものだ。安全保障とエネルギー戦略をにらみ、原子力だけは民間企業である電力会社に責任を負わせる今のあり方から、国家がより責任を持って関与する体制に変えることも重要だ。

ところが日本はこのような統合戦略を明確に示さず、脱原発の民意に配慮するそぶりをみせながら、静かに再稼働させようとしている。責任ある統合原子力政策を示しているようにはみえない。しかも世界に向けてはどんどん原発を売り込もうとしている。国際社会からは日本は何を考えているかわからないという不安の声も上がってきている。

日本人は軍事利用の「核」と平和利用の「原子力」という言葉を巧みに分けて使ってきた。しかし、この二つは国際的には同じ言葉で、核兵器原子力発電は表裏一体として扱われる。私はIEA(国際エネルギー機関)やIAEA国際原子力機関)などに何度も足を運んで議論してきたが「エネルギー戦略と安全保障は切り離して考えたい」という話は通用しない。日本は平和利用のみというすばらしい、しかし特殊な国だ。原子力に関する国際社会では平和利用と軍事利用が絡み合っていて一体だと思っている人々を相手にしなければならないから大変なのだ。

このように核と原子力を一体としてとらえる国際社会の中で日本はどうすればいいのか。オバマ大統領が「核なき世界」を語り、2009年にノーベル平和賞を受賞したがその後、核不拡散に向けては足踏みが続いている。しかしこのまま絵空事にしてはいけない。日本は「核なき世界」を目指して先頭に立っていきますというメッセージを打ち出すべきだ。そのためには日米の「原子力共同体」を逆手に取る知恵も求められるだろう。米国も日本抜きでは新たな原発プロジェクトを進められなくなっているのが現状だ。それを交渉力として使い、日米による核の廃絶に向けた協力を模索すべきだ。米国の「核の傘」から出ることは簡単ではないが核廃絶の流れを日本が戦略的に進めることでしか実現できないであろう。

広島、長崎の経験、福島第一原発事故の教訓も踏まえて、原子力の軍事利用をこの世からなくし、平和利用の安全性の進化に貢献する。日本はこうした長期的な戦略に取り組むべきだ。

ただ皮肉に聞こえるかも知れないが非核のためには原子力の技術基盤を確保することが必要だ。原子力の技術は原子炉の廃炉にしろ、除染にせよ、汚染水の処理にせよ、あらゆる場面で求められる。それだけではない。国際的な交渉の場で日本が核廃絶に向けた貢献をするためには原子力の技術を維持し、人材の育成をすることが欠かせない。それがなければ国際的な舞台で責任ある発言をすることもできなくなるだろう。

東日本大震災の後、若い優秀な原発技術者がほかの分野に移る動きが出ている。原子力分野の技術者育成が展望を失っているからだ。技術基盤と人材を確保するためにも原子力に関する明確な政策確立を急ぐべきだ。

要約した見出しは『安全保障含めた国家戦力持て』


どちらももっともな意見で対応が急がれる。その間にも福島第一原発では懸命の努力が続けられ、けれど決定打はなく、汚染水はどんどん増え続けている。そして私はどう考えたらいいのかと暗中模索し、ひたすら新聞を書き写している。。。