生きていくということは

水曜日だったと思う。ツレアイが囲碁に行って留守。何気なくテレビをつける。

「旅のチカラ」という番組をやっていた。旅行者は角田光代。いいなぁ、作家はこうやって海外旅行して出演料がもらえてなどと思いながら観ていた。ほんの5分ほどで座り直す。

【街は毎日が銃撃戦〜角田光代 ボスニア〜】という副タイトル。

NHKネットクラブの番組詳細からコピーペーストをする。

番組内容
作家・角田光代が、ボスニア戦争下で出版された戦場都市ガイドを手にサラエボを訪ねる。毎日が銃撃戦の極限状況で、たのしみやユーモアを失わなかった人々の暮らしを知る。

詳細
20代のころからバックパッカーとして独り旅を続けてきた作家・角田光代が、偶然手にした「サラエボ観光案内」。92年から3年に渡ったボスニア戦争下で出版された、戦場都市ガイドだ。一般市民を襲う銃撃戦の悲劇と、街角に刻まれた人々の暮らしの物語がリアルに描かれている。極限状況だからこそコンサートや芝居をたのしみ、ユーモアを失わなかった市民の日常。サラエボを訪れた角田は、人が暮らすことの意味を改めて思う。

サラエボの町がどのようにセルビア軍に包囲されているか、背の高いビルにはスナイパーがいて絶えず、市民を狙っている状態がその「サラエボ観光案内」に図示されている。角田さんは自分の足で歩いてみる。

市民は町の移動は全速力で駆け抜けなければならない。不幸にも撃たれ亡くなった人々を埋葬する墓地は空き地がなくなってサラエボでオリンピックが行われたときの競技場を使った。その広い競技場にびっしり埋め尽くされた墓標。

そのような極限状況の中で夜はコンサートが開かれ、映画が上映され、芝居が上演され、戦争が終わった今の状態よりたくさんの観客が入った。日常生活を楽しむことが生きている証、尊厳の発露と覚悟を決めての日々。

一部のインテリがそうしたというのではない。一般市民がそう生きた。この戦争中に子どもを二人産んだ家族が登場する。二人目の妊娠には妻の母がさすがに今度の子は堕ろすだろと言ってきたが産むことを選んだと話をする横でその当該の息子が「えー、そうだったの。初めて聞いたよ。生まれなかったかも知れなかったのか、僕は。」と言った。

65歳の女性に会う。戦士として働いた。息子は18歳。?と思ったら二人いた子どもが銃撃戦の中で死んだのだ。戦争が終わって子どもをつくったという。

この観光案内をつくった人にも会う。戦争が始まるまでは映画監督として活躍していた女性だった。なにかせずにはいられなくて、記録も残したくてつくったという。


途中から涙なしには観ることができなかった。

翌26日の夕刊。「ボスニア 輝く初勝利 内戦下のサラエボ育ち ジェコ決めた」と銘打った記事。

1986年生まれ、サラエボで育つ。子どもの頃。、近所の遊び場に爆弾が落ちた。胸騒ぎを覚えた母が「危ない」と外出を止めてすぐのことだった。よく一緒に遊んでいたサッカー友達は亡くなった。

その下にボスニア・ヘルツェゴビナの解説。

ユーゴスラビアの共和国の一つで1992年に独立を宣言。その際、イスラム教徒で現在のボシュニャク人(番組ではムスリム人といっていた)、カトリック教徒のクロアチア人、東方正教信者のセルビア人の3勢力の間で紛争が勃発した。95年に和平合意が結ばれるまで続き、死者20万人といわれる。今も3民族間にしこりが残っていて、国家元首は8ヶ月ごとの輪番制。郵便会社、電話会社もそれぞれの民族向けに三つ存在する。

その横に「3民族の融和 オシム氏が尽力」という記事。

3民族による紛争のしこりから、サッカー連盟の会長職は輪番制で実質、各民族ごとに3人の会長が並列していた。このことから国際サッカー連盟は2011年4月、国際大会参加停止の処分を下していた。立ち上がったのがオシム氏。

「戦争の間、どこからも助けを得られなかった国の、唯一最大の楽しみがサッカーだった」という思いを胸に、同国連盟の正常化委員長に就任。

07年に患った脳梗塞の後遺症が残る体に鞭打って3民族の政治家を訪ね、「この国にとってサッカーがいかに重要か、日常生活の中にいかに深く根付いているか」と説き伏せた。会長の一本化に道筋をつけたことで制裁は解除された。

イラン戦に向け、オシム氏は「国民の心に温かい希望を残しながら大会を締めくくって欲しい」と話していた。

思いは選手に届いた。

何気なく観たテレビからサッカーにリンクし、ずいぶん心が耕されたこの数日間だった。そして戦争の状態の現実をわずかだが自分の心で感じることができた。