お伊勢さんのおかげ


津で娘夫婦、向こうのご両親と会食した後、宿を取った松坂に向かい、翌日、本居宣長記念館、鈴屋、郷土資料館を見学。夜の雨で紅葉の赤が鮮やかで
つややかだった。

本居宣長記念館、鈴屋は4年ほど前に娘と来て2回目。


今回の展示テーマは「神宮のおかげ」

HPから引用する。

 「一生に一度は行きたいお伊勢参り」でお馴染みの伊勢参宮。生きているうちに一度は見たい、行ってみたい、という想いから、伊勢は全国各地の人々にとって憧れの地でした。特に松阪は、伊勢の玄関口ともいえる町。徒歩で伊勢参宮をするのが普通であった宣長の時代には、参宮客はひっきりなしに松阪へと立ち寄りました。人が動けば、物も動く。大勢の参宮客の流れとともにやって来るのは、見たこともないクラゲやイルカの情報、そして生涯の師や遠方の門人との出会い。松阪にいるだけで、宣長のもとには日本中のいろんなものが向こうからやって来るのです。そのように、神宮の恩恵を直接受けることが出来るのが、松阪という町でした。
2013年は、待ちに待った伊勢神宮のご遷宮宣長の活動の基盤となった伊勢神宮と松阪を中心に、宣長が構築した18世紀の知のネットワークをご案内いたします。

 また2013年は、「松阪の一夜」から250年、本居春庭誕生から250年という、松阪の重要な記念の年でもあります。"神宮のおかげ"で繋がった宣長と師・賀茂真淵、そして宣長の息子・春庭の資料も公開中です。是非、ご来館下さい。

全国に弟子をもった宣長。やりとりはこのお伊勢参りが活用された。弟子の住む地の誰かがお伊勢参りときくと弟子は手紙をことづける。参道に宣長の家は面していた。行きに立ち寄り、ことづかってきたと渡す。帰りに立ち寄ったときには返事がすでにできていてそれをまたことづかって弟子に届ける。

人づての通信添削。

賀茂真淵に会えたのも誰もが一度は行くお伊勢参り、真淵先生が来て宿に泊まっていると聞いて宣長が訪ねた「松坂の一夜」。

古事記を訳していて宣長はクラゲという言葉に出会う。できたての日本列島はクラゲのようにゆらゆらとしていたとある。見たことも聞いたこともないクラゲ。これも弟子である伊勢神宮御師の荒木某が参拝を誘う旅で長崎まで足を伸ばしたときに実物を見たのを先生に報告、謎が解ける。

御師の活躍で全国から参拝客が集まったという。

今回、初めて立ち寄った郷土資料館で伊勢おしろいを知った。

多気郡勢和村丹生は古代から水銀を産出する土地として知られ、松阪市の射和は、この丹生の水銀の中継ぎを行い、またそれを原料にして軽粉(けいふん)、つまり白粉(おしろい)を製造して発展した。その製造法は、水銀に赤土・食塩などを水でこねたものを約600度で四時間程熱して、「ほっつき」という蓋についた白い粉を払い落とすというもの。
射和の軽粉製造業が最盛期を迎えるのは、室町時代から戦国時代にかけての時期。当時、釜元と言われる製造場が83か所もあり、中世には「白粉座」という同業者組合のようなものも組織されていた。このような繁栄の背景には、伊勢御師の活躍があるという。伊勢御師は全国各地を回って神宮の御札を配ったが、その際、伊勢からのお土産として伊勢暦や伊勢白粉も一緒に配った。中世の終わりごろの軽粉業の繁栄も、江戸時代になって丹生の水銀の産出量が急に減り、また中国から安い鉛性の白粉が入るようになると、衰えを見せ始めたが、軽粉は、やがて化粧品としてよりも梅毒・シラミの特効薬としての用途の方に比重を傾け出した。

資料館にはコロンブスアメリカ発見400年を祝ってアメリカで行われた万博に出品された軽粉が陳列されていた。

この産業の繁栄にかくれて公害で苦しむ人たちがいたであろうことは容易に推測されるがその記述はなかった。