8月最後の土曜 追記あり

午前中は町内会の行事、三世代交流、折り紙の会。

ドラえもんとヘビ。折り紙の講師が来て教えてくださった。参加数の読みがほぼあたって会長さんは鼻高々。

昨年は近くの高校の美術科の先生にデッサンを教えていただいた。


午後、読書。cimacoxさんの書かれていたものをみて、読んでみようと思い、amazonに中古本で注文。村上龍の「最後の家族」。

「おかあさんは、内山さんを救いたいんだと誰かに言ったり、あなたを救うんだと言って、無理やりどこかに連れて行きましたか?」
「いいえ、していません。逆に、僕に干渉しなくなりました」
「おかあさんはどうやってあなたを救ったんでしょうか」
「わかりません」
「おかあさんは、あなたのためにいろいろな人と話すうちに、自立したんじゃないでしょうか。親しい人の自立は、その近くに居る人を救うんです。一人で生きていけるようになること。それだけが、誰か親しい人を結果的に救うんです」

小説を読むのは久しぶりだった。ドラマ化もされたようだ。

追記

一晩寝て、この小説にはずいぶんメッセージが詰まっていると思った。書き出してみる。(原文と一致していないところもあるがそれはtakikioが勝手に変えています)

「女性を救いたいというのは、DVの第一歩なんです。救いたいという思いは案外簡単に暴力につながります。

それは、相手を、対等な人間と見ていないからです。対等な人間関係には救いたいというような欲求はありません。

彼女はかわいそうな人だ。だからぼくが救わないと彼女はダメになる。ぼくが居るから彼女は生きていける。いなければ生きていけない。そういう風に思うのは、他人を支配したいという欲求があるからなんです。

そういう欲求が、ぼくが居ないと生きていけないくせに、あいつのあの態度はなんだ、というように変わるのは時間の問題なんですよ。

他人を救いたいという欲求と支配したいという欲求は実は同じです。そういう欲求を持つ人はその人自身も深く傷ついている場合が多いんです。そういう人は相手を救うことで救われようとします。

でも、その人自身が心の深いところで自分自身は救われるはずがないと思っている場合がほとんどなんです。自分が救われることがないという思いが他人への依存に変わるんです。」

「知美ちゃんと知り合ってから気づいたんだけれど、女の人に何かを求めるのは甘えがないとできないって。

今、ぼくは知美ちゃんに甘えたくないんだ。

引きこもりのとき、自分が母親に甘えているのがわからなかったんだ。デパートに一緒にラジカセを買いに行ったときに売り場で母親がこんな大きなステレオはいらないんじゃないのって言って、ぼくは、デパート中に聞こえるような声でバカヤローと怒鳴ってしまったんだよね---略---自分の母親に、あんな、涙があふれているのに無理やり笑い顔をさせてしまった自分が許せない。今でも。

ぼくたちの周りには気がつかないところにいっぱい甘えがある。知美ちゃんを帰したくないっていうのも甘えなんだよ。知美ちゃんは高校生だし家の人も心配しているしそういうことを知っていて帰したくないっていうのは甘えなんだ。

ある人がぼくのためだといって何かを犠牲にする。知美ちゃんがぼくのために家に帰らない。それで知美ちゃんの気持ちを確かめたりするのは間違ったことだ。甘えなんだよ。」

「デニスロッドマンの自伝っていうか、半生が映画化されたんだけれど、それをレンタルビデオで見たんだ。

ロッドマンはオクラホマ大学に行くんだけれど、田舎で人種差別もひどかったんだ。そこでロッドマンはバスケが好きな白人の少年と友だちになって、その少年はすごく孤独だったから両親は友だちができたのを喜ぶんだよ。少年の父親は大きな農場をやっているんだけれど。その家に下宿して家族の一員みたいなつきあいがはじまるわけ。

でもロッドマンはしょっちゅう他の人種差別主義の白人といざこざをおこすんだよ。そのたびにバスケなんかやめると農場主のおじさんに甘えるんだ。ロッドマンは父親を知らずに育ったんだよね。

あるとき農場主がロッドマンに向かって、もうお前の、バスケなんかやめるって台詞は二度と聞きたくないって怒るんだ。

それで、おれは絶対にやめないぞって大声で言えって命令するんだよ。ロッドマンは何度もそれをいうんだけれどもっと大声で、もっと大きくって、本当に何度も言わせるんだ。

日本語の字幕だと、おれは絶対にやめないってでるんだけれど英語を聞いていると、They can't make me quit.って言っているんだよ。あいつらはおれをやめさせることはできないという意味なんだ。

ぼくらは何かを始めて辛くなってそれがいやになったときにやめようかなって考えるでしょう?でもそれは違うんじゃないかと、そのロッドマンの映画を見たときに思ったんだ。

何かが、誰かが、ぼくをやめさせようとしているのかも知れないって思ったんだ。ぼく自身じゃなくて。それはクラスにいた70人の生徒かも知れないし、宝石デザイナーなんか男の仕事じゃないって言ったぼくのオヤジかも知れない。

下働きのときはおもしろくないんだよ。プラチナの仕上げとか、えんえんとヘラがけをして。ヘラっていう道具で表面を磨くんだけれど、もういやになるぐらい単調な仕事なんだよ。そういうのばっかり続くと誰だってもう辞めようかなって思うよ。思わないヤツは人間じゃないよ。

ただ、もう辞めようかなじゃなくて、誰かがぼくを辞めさせようとしてるなって思うと、意味が違うでしょう。辞めるっていうのと、誰かがおれをやめさせようとしてるって全然違うでしょう。

やめようかなっていうのは自分が一度選んだことだというのが曖昧になってしまうんだよね。別に最初からそんないやりたいわけじゃなかったしって思えるんだよ。単調な仕事に飽きていやになったときに、どう思うかだよ。自分はこの仕事をやりたい。でも誰かがぼくをやめさせようとしている。そう思うようにしたら考えが変わったんだ。」

この小説の帯に「この小説は救う・救われるという人間関係を疑うことから出発している。誰かを救うことで自分も救われるというような常識がこの社会に蔓延しているが、その弊害は大きい。そういった考え方は自立を阻害する場合がある。」という著者の言葉がある。2001年の小説だがcimacoxさんも言っているように12年後の今も色あせていない。

追記終わり


庭の鉢植えを地植えにする。タカラヅカ。少しだけ紫色のは花が咲きかけている。雑草引きもする。時間にして30分ほどのことだったのにどっと疲れる。
蚊にかまれる。