選択の科学

土曜日be版のフロントランナーはシーナ・アイエンガーさんだった。

先日読んだ『選択の科学』の著者。
http://d.hatena.ne.jp/takikio/20120421

新聞記事の内容は結局この本の内容紹介になるので、まとめてみる。書き写してみる。

生まれつき目の病気を患い、高校生の時には失明。インドから米国への移民の娘。シーク教の厳格な戒律を娘にも守らせた父は13歳のときに心臓発作でなくなる。困難の多い、劇的な人生は「運命」か、「選択」の結果か。自分への問いかけがそのまま研究内容に重なる。

大学院生の時の実験で一躍注目される。試食用のジャムがスーパーの店頭に24種類並んでいたときと6種類しかないときと客の反応。多いとき、試食をする人は増えるが購入者は種類を絞った方が圧倒的に多かったという小売業界の常識に反した結果。

選択肢が多すぎると人の判断能力を超えてしまう。

選択日記の提案をしている。選択の内容を日記に記録することで過去の判断を何度も検証し『情報に基づく直感』を養える。

選択とは将来と向き合うこと。だからこそ普段からの思い込みや判断が誤ったときの理由も検証し結果を率直に議論して初めてその可能性を実現できる。

両親が育ったインドはルールに従って進む人生が当たり前、米国に移住してもシーク教の教えを忠実に守り、服従の大切さを説いた。しかし彼女が進んだ米国の公立学校は自分のことを自分で決めるのが当たり前で望ましいと教わった。

大学生のときの卒論は複数の宗教の信仰者に聞き取りをし、その信仰によって受けている影響や人生への満足感を調査した。その結果は原理的な信仰を持ち人生における選択肢が少ないように見える人がむしろ、楽観的で幸福だった。制約を受けることが必ずしも自分で決めているという感覚を失わせているわけではない。

大切なのはいかにおおくの決定をしているかではなく自己決定の意識を持っているかだ。何も決められない状態と考えると人は生きる力を失う。一方であまりにも多くの選択を求められると判断力を失う。何が重要かを見極めそれに集中することが重要だ。

米国ではチョイスの可能性に焦点があてられ、インドや日本ではレールから外れることが問題とされ選択の限界が注目される。しかし、どちらも極端でバランスを求めるべきなのだ。

重要な選択であったかどうかを検証するのに判断当時にどのような影響を予想していたのかその結果がどうだったのかを比較することが不可欠。しかし人の記憶はあいまい。当時の感情も思い出すのは困難。そこで日記が必要となる。

医療はこの数十年でインフォームドコンセントの概念が進み、患者が判断をするのが当たり前になってきた。しかし、生命に関わる選択は決断が酷になる。新生児の生命維持は米国では親が判断、フランスは医師が決定をするのが通常。双方を比べるとフランスの親の方が心理的な負担が少なかった。

難しい決断の場合、専門的知識を持った人に頼ることによって苦しみを軽減することができる例だ。

終末医療にもあてはまる。医療が発展し社会の高齢化が進む中以前は考えられなかった決断が家族に求められている。しかし、普通の人はそのような判断をする能力も材料もないのだ。

困難や代償は伴う。でも選択は人生の可能性を切り開く。