帯をとくフクスケ

昨日のおでかけ、古本屋にも寄る。
ツレアイがあれこれ見ている間にパッと私の目に入った本がこれ。




「複製・偽物図像解読術 帯をとくフクスケ」

この表紙と著者荒俣宏という名前を見てこれはおもしろいに違いないと購入。定価2600円が1600円になっていました。

前口上を写してみます。

 某月某日の晩、余は思いあぐねていた。いまや美術館と画商の手に握られ、ほとんど一方的に”価値”の体系としてしか語られぬ美術の惨状に鑑み、これを元来の”図像”すなわちイメエジの体系として眺め直そうとするにあたり、その真意を端的に伝えるメッセエジがあるはせぬかと。

 申すまでもなく、現今の美術界低迷の原因は、ひとえに”価値”尊重主義にある。ここで価値というのは<名前><真偽><希少性>などの要因により決定される。つまり、質クォリティの名において、画像を差別することに他ならない。巨匠が手ずから描いた唯一の絵=本物についてだけ、これを美術として論じうる対象と認めるのである。

 ところが、この清潔な主義を貫きすぎると、美術品は骨董品、すなわち「物ブツ」になってしまう。そもそも世に存在する美術の第一義的な役割は、絵によって何を伝えるかという図像の訴求力にあった。だから、誰が描こうと、オリジナルであろうとなかろうと、図像は図像として成立する。「物ブツ」ではなくて「メッセージ」なのである。

 そこでいっそ、これまでクズ美術、ゴミ・アートと呼ばれてきた複製偽物画像のみを対象として、美術本来の役割である図像の訴求力を読み解く試みができはせぬものか。余はそう考えたのち、すべての問題をば展望する象徴的メッセエジを創案すべく、熟考に熟考を重ねた。しかし名案も浮かばぬまま、深更に至ったのである。どうにも人間ばなれのした名案がうかばぬため、うつらうつらと夢路にはいりかけた折、ふと周囲に紫雲が立ち込めたように感じられた。寝ぼけまなこを上げてみれば、文机の一角に螢火のごとく光が見える。

 その光暈の内に、いかにも愛らしい福助があらわれたのである。福助は一礼して立ち上がり、頬を赤く染めながら、肩衣を脱ぎ、袴を外し、するすると帯をといた。前がはだけ、ほんのり窺いた褌の愛らしさ!

 余は、その思いがけぬ光景を喰い入るようにみつめた。そして、ダ・ヴィンチの偉大な芸術「モナリザ」よりもさらにあざとく、愛らしい、この図像のおもしろさに魅了されたあげく、「これだ!」とばかりにハタと膝を打ったのである。

 帯をとく福助の姿は、一瞬のうちに消え失せたが、その愛らしいイメエジは後まで長く残った。

 これは天啓である。福助のごとき巷の図像が、このつたない試みをことほいで、たまさか窮極の図像を現わされたものであろう。神仏に感謝しつつ、余は総タイトルを「帯をとくフクスケ」と決することにした。

昭和六十三年四月吉日 筆者識
このいざない、ぞくぞくっとしませんか。。。荒俣節を楽しみながら読んでいくことにします。