川上未映子さん:その2

きょう、コンビニで文芸春秋買いました。

夕飯の後、読了、「乳と卵」。

おもしろかった。受賞者インタビューもなかなか。

読み終えたときには必ず読者の目盛を3ミリ上げてくれる小説を書きたいと応えています。

家に本がなかったので国語の教科書で読書経験が始まったとの事。

                        • ここからは、4時間ほど前に詳細編集画面で書いた。するとタイトルも変なところに出て。なのでここから下は川上未映子さん:その1というタイトルにすべきなのです。-------

家では朝日新聞、勤務先では神戸新聞を読む。

1月23日の朝日には「芥川賞を受賞して−作家は物語のためにいる」
1月28日の神戸には「芥川賞に決まって−空にひしめく無数の言葉」

という、タイトルで川上未映子さんが一文を寄せていた。

>>そしてもうひとつは図書館。本棚を何気に見上げれば、本しかないことに驚いた。わあ。ここには、本しかない。---略---そうするともう、背表紙がなんだかお墓のように見えてきて大変だ。物語は残っていても、人は誰も残っていない。そしてまた、人に読まれて継がれていくのも、物語以外にはありえない。そんな風にそれぞれの物語がそれ自身を認識させるために作家を選んでやってきて、俺は夢野久作、あたしサリンジャー、じゃあ、僕は尾崎翠で、といった具合で作家は文字通り使い捨て、まさに物語のためにあり、われわれ読者が発見するのは結局いつも、物語そのものなのである。<<
といった具合で実におもしろい感性の人。他人事と思っていたら今度は自分めがけて物語がやってきたとのこと。そして思う存分奮闘したら賞をもらった。そして、

>>いい物語がやってきたらそれを最高の形にして届けることができるよう、読者の心になんとか一石投じる物語の為のよき使い捨てになれるよう、心身ともに鍛えぬいてやっていこうと、決心も新たに身のぐんぐん引きしまる思い。<<
というのが結びの文章。

もう一つは、自分とは別個のものとして存在するなにか大きなもの、励ましてくれたり包み込んでくれたりするようなものとして空を見上げ、

>>こんなふたつの一見矛盾したような感覚をかるがると可能にするのは、言葉にして考えることができるためであって、言葉のおかげであって、言葉を使えば、空が自分になったり、やっぱり分かれて、抱きしめたり抱きしめられたりできるのだ。そんな言葉の顔を真正面から斜めから見つめながらにいろいろやってきたら、大きな新人賞をいただいた。---略---言葉にできるものとできないもので満ちたこの巨大な空のした、いろんな気持ちで泣きそうである。この震えのようなもの、覚悟のようなもの、それらはすべて文章と読んでくれる人のためにある。なんとか、なんとか、読んでくれた人の空のような部分に、燦然と輝いてときにはその人を少しでも勇気づけるようなそんな言葉を投げることができたら。見上げれば明日も生きていけるような、そんなものを作れたら。一生かけてやってみたい。<<
いいでしょう、とても。思わずどちらも切り抜きました。

私の勤め先が聾学校であるだけに日々、言葉と悪戦苦闘している毎日、子どもたちをきちんと書記日本語の世界に送り出し、豊かな感受性を手話だけでなく日本語ででも磨いて欲しいと思っているから、余計に彼女の二つの文章に心引かれる。